1 日本円で3万円ではわからない
  [初出] 03.01.18  [最終更新]  [平均面白度] 3.5  [投票数] 4  [コメント数] 0
「カツ丼を頼んだ。量が多く濃い味だった。勘定は1700円だった。」こういうような文章を読めば、お、ずいぶん高いな、という印象を持つ。これは我々が(同時代に生きるものとして)モノの価格の「常識」を共有しているからだ。その常識に寄り掛かって、この文章のウラに書き手の不満の感情を読み取る。量が多く濃い味ってのは、この書き手にとってはマイナス要素であることも読み取れる。しかし、これが「勘定は170円だった」なら、どうだろう。きっと書き手は「量が多くて濃い味」を喜んでいるってことが読み取れる。べつに「なんと」とかいう感嘆詞が挿入されていなくても。

文中に記されたモノの値段は、その文章を読解するうえで大きな要素になる。しかしモノの値段は時代によって変化するし、金銭感覚も時代により変わる。冒頭に引いた例なんかも、10年20年経てば、今読むのと同じ感覚では理解できないだろう。
おれはこれでも学資のあまりを三十円ほど懐に入れて東京を出て来たのだ。汽車と汽船の切符代と雑費を差し引いて、まだ十四円ほどある。みんなやったってこれからは月給を貰うんだから構わない。田舎者はしみったれだから五円もやれば驚ろいて眼を廻すに極っている。

『坊ちゃん』の一節。「5円もやれば」とあっても、大金なんだろうとは思うが、いまひとつピンと来ない。たとえば文中の円を万円と置き換えると、下女に「五万円」渡したことになり、これなら、読者である「しみったれの田舎者」であるぼくも驚いて目を廻す。「五千円」なら目は廻さない。「坊ちゃん」の坊ちゃんぶりが可笑しいだけだ。

このあたりの金銭感覚がわからないと、小説を充分に味わいえない。

そういうこともあって、いろんな文中には訳者とか編集者の手によって、「(現在の金額にして5千円ほど)」とか「日本円で3万円」とかという注釈がふされていることが多い。

しかしなあ、これが問題なんですよね。

基準がはっきりしない。たとえば明治と現代を比べるにしても、米の値段で比べるとか、職人の手間賃で比べるとか、いろんな基準があるわけだ。

翻訳ものにしても、まさかディケンズの小説の中の何とかポンドを現在の通貨レートで換算するなんてことはしないでしょうけど、最近の小説であっても通貨レートで単純計算しただけでは感覚が狂ってくる。

ムツカシところです。
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