2 キューバへの道 2
  [初出] 2005.07.20  [最終更新]  [平均面白度] 4.25  [投票数] 8  [コメント数] 0
前項に書いたキューバの自動車事情については、若干のウソがある。前項ではキューバで走っているクルマはすべて50年代製のアメ車であるように書いたが、韓国製の現代の自動車も走っているらしい。アメリカは依然として経済封鎖を続けているが、EUやカナダなどとの貿易は盛んに行われているのだ。

しかし、大筋としては間違ったことは書いていないと思う。

後付けで言うなら、キューバ革命はある意味で「反グローバリズム」の道であったといえよう。アメリカが(ぼくらの感覚からすれば異常なほど)キューバを毛嫌いするのは、それがのど元に存在している共産主義政権であるからというより、その「反グローバリズム」的な姿勢ゆえのことかもしれない。

前項でぼくは、キューバ革命の時期が60年代初頭であったことが、その後、キューバで長く自動車が使い続けられた決定的な要素であったと書いた。もっと後だったら、電子部品をパックで差し替えることでしか長期間使い続けられない設計になってしまっていたため、そうした技術と工場をもたないキューバ島では、車は順次スクラップ化していかざるをえなかっただろうし、もっと前、極端にいえば19世紀であったのなら、自動車工業そのものを自力でたちあげざるをえないから、それも不可能だったろう。

自動車工業が成立するためには、高度なインフラが必要だからだ。

ともあれ、キューバでは長く50年代製のアメ車が走行し続けたということは「もったいないのココロ」主義者にとっては、勇気をもたらしてくれるエピソードである。ここに「20世紀末期型消費生活」からの脱却のひとつのヒントがあるように思うからだ。

脱「20世紀末期型消費生活」にはいろんな方途が考えられる。もっとも極端なそれは、反物質文明というべき考え方だ。江戸時代へ戻ろうというような考え方。生活のすべてを自給自足していけばどうかという姿勢といってもよい。

きわめて少数であるが、その方向での取り組みを実践している人が存在するし、ロマンとしてそれを夢見る考え方もある。しかし、現実的にはそれはまさに「ロマンの領域」の話に過ぎない。その考え方を本当に実践するなら、ぼくらは盲腸炎で死なねばならないし、近視を矯正することもできない。

だから、ぼくらはどこかで物質文明と妥協をしていかなければ仕方がない。その妥協点をどこに見いだすのかという議論になろうかと思うのだ。

言い方をかえれば、現在の生活のあり方を一気に全否定することは不可能だけど、少しずつ距離をとっていくという戦略はありうるのではないかということだ。

それは具体的にはどのような道であるのか。正直、ぼくにははっきりとはわからない。わからないまでも、少しは想像できる。だからこそ、キューバのやり方が魅力的に見えたりするのだと思う。そこにヒントが隠れていると思ったりするのだと思う。

まずは生活のあれこれを「取り戻す」ことから始めたいと思う。取り戻すというのは、自力で行うという意味である。自力で行うということは、とりもなおさず自力で考えるということだ。たとえばシクミが理解できなければ作ることは当然できない。つまり、生活を取り戻すというのは生活のあれこれのシクミを正しく理解するということが出発点になると思うのだ。

原始人は、自分の生活のすべてを理解し、自力で実践しなければ生きていくことすらできなかった。自力で石器になりうるような石を探し出す能力を持ち、その石を砕いて鋭利な石器を作り出す能力を持ち、その石器を使って動物を狩るための知識と技術を持っていなければ生きることができなかった。

しかし、それではできることが知れている。ほどなくして人類は分業を行うことを始めた。分業により、人類の生活は格段に向上した。しかし、それは同時に生活のすべてを把握することを不可能にした。漁師は釣り針を作らなくても、それを釣り針作りの専門家から購入することで漁に出れたし、釣り針師は魚の生態を知り、船を操る技術を持たなくても、漁師から魚を買うことでそれを食べることができるようになった。

分業とはいえ、ほとんどの「作業」は、長い間交換可能であったろう。ほとんどの釣り針師は漁に出たことがないにしても、いざとなれば自分で魚を捕ることができると思っていたろうし、漁師も釣り針の作り方の概略は認知していたに違いない。しかし、時代が進むにつれ、自分の仕事以外の領域はすべてブラックボックス化してしまった。

現在の釣り針作りは、鉄鉱石の見分け方なんかはいっさい知らないだろうし、そこから製鉄する方法も知る必要はない。番線を買ってきて、それを加工する(のだろう、たぶん)だけでいいのである。

こういうやり方を採用することで、人類はロケットを作ることもできたし、(金さえあれば)遠い外国の珍味を食することもできるようになった。しかし、原始人なら、すべて手中にしていた生活の真実のほとんどをブラックボックス化してしまうことになった。

それはそれでいいと思う。そうして得てきたものをいっさい捨てて生活したいなんて思わない。しかし、少しずつでもいいから、失ってしまった生活の真実を取り戻す方向に進みたい、と考えているわけだ。

それがぼくの「もったいないのココロ」の中心軸なのである。なんだかカッコつけてるみたいだけどね。


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