1 キューバへの道 1
  [初出] 2005.07.11  [最終更新]  [平均面白度] 4.5  [投票数] 14  [コメント数] 0
先日書いた梅の収穫という記事にたいしてうまやどさんからコメントをいただいた。趣旨はわかりにくいのだが、類推するに「iPodの液晶が壊れそうになっている。それは早すぎるのではないか。それに関して何か書け」ということのようである。

残念ながら、ぼくは液晶に対して語る知識も情熱も(いまのところ)ない。iPodも持っていないし、今後も持つ可能性は極端に低いと思う。だいいち、出先で音楽を聴く趣味も習慣もないのだ。

初代iPodが出てからの時間を考えると、液晶がダメになるのが早すぎるような気がしないでもないけど、しかし、ありえないことではないと思う。現代の消費者向けの製品は、部品を取り替えるよりまるごと買い替えたほうが安く付くというのは、なにもこれだけには限らない。

もったいないといえばもったいない話だけど、それが嫌なら(つまり、部品を交換してより長く使えるような製品がいいなら)こんなに安くは製品を入手できないだろう。20世紀前半型の工業製品は部品をネジでとめていくような感じで作られていたが、後半になると、糊でくっつけて作るような感じになり、21世紀にかけてはあたかもハンコでポンと押すかのような製法に変化してきている。もう、こうなったら部品単位(そもそも「部品」という概念がなくなりつつある)で後からどうこうしようとしてもできにくい。

今でも「部品」単位の修理が可能である場合もあるんだけど、それがはたして「部品」といえるかどうか。たとえばコンピュータのマザーボードは、それ自体を「部品」として考えるなら、マザーボードそのものを取り替えるという形をとることは可能だけど、マザーボードを構成している多数の要素を「部品」として捉えると、そのあれこれを(たとえばボードの中の配線の断線を)修理することは、現実的に不可能に近い。「ハンコで押す」ような感じでそれが作られているからだ。

こういうことがらに対して思い起こされるのは、キューバにおける自動車のことだ。

キューバ革命によりアメリカとの国交が断絶されたのは1961年の1月である。以来、この国はアメリカによる経済封鎖を受けている。キューバにも自動車が走っているが、それは61年以前にアメリカから輸入されたものだ。それを延々と修理に修理を重ね、使い続けているわけだ。

それ自体すごい話だし、ある意味、感動的なんだけど、キューバ革命がこの年に起こったからこそ、やりえたことだと思う。現在の時点で起これば、つまり、今の乗用車を延々と修理を重ねて使い続けなきゃならない状況になれば、40年以上も続けられるものではないだろう。今の車はマイコン制御になっており、そうした電子部品を「まるごと交換」できるようなシステムがない限り、長くは使い続けられない。

もったいないといえばもったいない話なんだけど、しかたないのだ。こんなふうに工業製品を作るようになったからこそ、その価格を劇的に下げることが可能になり、その結果としてわれわれがその製品のもたらす利便を享受できるようになったわけだ。iPodとか携帯電話なんかは、その象徴的な製品だろう。

ドライバーと半田ごてで修理が可能なような形で作るとしたら、iPodはおそらくポケットに入る大きさにはならないだろうし、値段もこんなに安くはできないだろう。20世紀末期型の工業製品は、というより、20世紀末期型の消費社会は必然的に大量のゴミを発生させる形でしか成立しないのである。

そうした構造に対する人々のなかば本能的な「畏れ」の感情が「もったいない」というココロの復権につながってきたのだと思う。こんなやり方はよくないんじゃないか、と。

この「20世紀末期型消費生活からの脱却」という考え方(気持ち)をぼくはかつて「もったいないのココロ」と表現したのだが、この考え方は最近よく「節約生活」とセットで捉えられることが多い。しかし「もったいないのココロ」と「節約」は基本的なところであいいれない考え方である。

節約生活というのは、その主眼はあからさまにいえば「安上がりな生活」である。お金の支出をどうやって抑えるか。言い方を変えれば「低コスト生活」である。

低コスト生活を支えるために発達してきたのが20世紀末期型の消費生活だ。ああいうやり方をしたからこそ、いろんなものが安く入手できるようになった。

「20世紀末期型消費生活」からホントに脱却しようとすると、おそらく逆に「高コスト生活」にならざるをえない。

もちろん、両者はあるところまでは手に手を携えてともに歩んでいくことができるだろう。たとえば今あるテレビで我慢してプラズマテレビに買い替えないというのは、「もったいないのココロ」主義でも「節約生活」主義でも行動は同じである。しかし、テレビがホントに壊れてしまった時(そしてなおもテレビが必要だと判断したとするなら)両者の行動は大きく変わるはずだ。節約生活という点で、もっとも正しい行動は、「一番安いテレビを買う」ということである。それは言うまでもなく20世紀末期型の工業製品である。ガチガチの「もったいないのココロ」主義者なら(ぼくは違いますよ)、おそらく「自分でテレビをつくる」という道を選ぶはずだ。もしくは「壊れたテレビを自力で直す」とか。これはむちゃくちゃ高く付くに違いない。

端的な話、ぼくは味噌とか梅干しを自製している。これは自分の中では「もったいないのココロ」主義の実践の一環である。しかし、節約という意味では、味噌にしても梅干しにしても、店で買ってきたほうがずっと安上がりだ。

別の言い方をすれば「節約」主義は生活のコストパフォーマンスをあげるという考え方であるが「もったいないのココロ」主義はコストパフォーマンスという物事の捉え方を捨てるということであるのかもしれない。
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