6 チョボ六チョコ六ヒキ六(1)
  [初出] 02.07.18  [最終更新]  [平均面白度] 5  [投票数] 4  [コメント数] 0
長寿の亀、お花探索のために南方熊楠日記を読みはじめたはずが、−−別に今回に限った話ではないのだが−−目的外のところが面白くて止められない。今まで読んだどの熊楠の伝記類より100倍は面白い。

大正元年の分から読み始めたのだが、のっけから「ヒキ六」という人物が頻繁に出てくる。これは彼の子供(幼児)だということは文脈からすぐわかる。しかし熊楠の長男は熊弥であったはずで、なんで「ヒキ六」なのか、というのがまず不審になる。あざ名であるのだろうが、なんでこのような名前なのか。

読み進めていくと、ヒキ六の言葉として「トーサンとカーサンとヒキさんとならんで食へば〜」などという文章が出てくるので、日記の中だけの符牒ではなく会話の中でも使われていた(自称にも使われていた)ことがわかるし、なおも読んでいくと、中学生が「この家のヒキ六は〜」などと会話しているので、家族外でも通用していたこともわかる。子供にあざ名を付けるのは比較的一般的なことだし、別に驚くにあたらないし、ヒキはおそらくヒキガエルの連想であって、幼児、特にハイハイしかできない頃はヒキガエルそっくりであることもわかるのだが、明治末年に後年巨人とまで呼ばれる男(45歳)が、いまどきの「ニューファミリーのパパ」みたいなことをしているのがおかしい。

日記の中に占めるヒキ六に関する記事の比重は非常に多い。ほぼ毎日ヒキ六がどうしたこうしたという記述がある。たとえばこのような感じ。
ヒキ六夕ふり花火祝ふ。祇園の祭りにかひし所也。文枝火をつかみに之く。

「文枝」はまだ0歳児の長女。文枝の記述も多いがヒキ六には到底かなわない。溺愛のほどがにじみ出ている。

前に書いたように、大正元年の文を読み終わったあと、5年前である1907(明治40)年の分を読み継いだ。この年はヒキ六=熊弥が生まれた年である。

年の前半はまだ「ヒキ六」は生まれていないからそれが出てこないのは当然なのだが、そのかわりに「チョボ六」というのが出てくる。知人(野田氏)の飼い猫だが、熊楠の家にも頻繁にやってくる。チョボ六と熊楠のつきあいは粗っぽいもので2月19日には
猫チヨボ六前日(十五日)疵つき帰り、予に頭をけられて逐電

などとある。他の記述も、現在の観点からはけっして可愛がっているようには見えない。

少し気になって、ぱらぱらと日記をさかのぼってみると、前1906年5月15日の項が初出のようである。
夜野田氏方に宿。此三日斗り不在の猫、名はチヨボ、帰り来り(午前二時)なくことやかましきを、予右の平手にてたゝき、つぶれし如き音す。朝見れば右眼の上はれたゞれ赤くなりあり。

ファーストコンタクトから実に粗っぽいが、ともかくこの猫の「本名」はチョボであることがわかる。「六」というのは熊楠が付した愛称の接尾辞だろうか。

1907年の前半の日記にはチョボ六は時折登場するが、6月27日の項に、おそらく後からの書き込みだろうが「此夕より猫見えず」とある。以降、チョボ六は熊楠の人生から去る。一方長男熊弥が誕生したのは6月24日で、熊楠が対面したのが6月28日である。
プレパラート作る。夜片町へ之、入湯。児を看て暁近く迄睡らず。


熊楠にとっては、長男はある意味、猫の生まれ変わりだったのかもしれない。少なくとも、そうした想いが少しはあって、6月27日の日記に後から書き入れたのだろう。子供に対する日記内での呼び名は以降「小児」である。しかし8月13日になって
朝小児チヨコ六、予の顔を見て満面ゆがむばかりに笑ふ。


女親は知らず、父親が子供をいとおしいと思い始めるのは、その子が自分に対して積極的な反応を示した瞬間からだろう。始めて心から愛情を感じた日、熊楠は日記で「チョコ六」というニックネームを捧げる。チョコ六がチョボ六と通底していることは8月21日に「小児チヨボ六甚おとなし」という記述(誤記かもしれないが)があることからもわかる。

以降、熊弥は日記内で「チョコ六」と記される。面白いことに、このあたりから1日分の日記の分量がはなはだ多くなる。子供の誕生により、熊楠の人生が大きく変化したのではないだろうか。
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