5 残された可能性
  [初出] 02.07.17  [最終更新]  [平均面白度] 5  [投票数] 5  [コメント数] 0
大正元年の日記に「亀を助けた」記載が見当たらなかった。このことはいったいどのように解釈すればいいのだろうか。

考えられる可能性は
1)大正元年という記事(メルマガなど)が誤記で、実は別の年
2)日記に記載漏れがあった
3)そもそも8銭で助けた亀というのが伝説にすぎない

1)の年の誤記というのは、前に引用した大正元年(1922)という記載もヒントではある。1922年は大正11年であって、元年ではない。しかし、残念なことに、八坂書房の「南方熊楠日記」は大正2年までしかカバーしていないので、今回の方法で検証することはできない。

また逆に、大正元年以前の話であるとすれば、前回引用の「大なる牝亀五年かひおきしもの」以前・以降の亀の出入りを検証すればわかるかもしれない。

そこであたりをつけて1908年の日記を読んでいくと
今日其(小川氏、引用者注)の五、六男、神田池でとりし亀三寸斗り一疋もらひ帰る<追記 今一疋は甚大なり、明後日もらひ帰る>

とある。おそらくこれが「五年かひおきしもの」であるのだろう。1909〜1911の日記は未読だから、はっきりしたことは言えないが、ここで2匹入手し、大正元年には二匹の亀が池にいるのだから、これで大正元年以前に「八銭で助けた」亀はいないことになるのではなかろうか。

ここで私の亀調査は頓挫した。

あと残された方途は四巻本の日記の未読部分を精査することくらいしか残っていないが、そこで発見できる見通しは暗い。

そもそもよく考えてみれば、浦島太郎そのままのエピソードは、姿そのものが怪しい。真相は3)であるのかもしれない。

ただ、日記を読んだことで、当初の印象がかなり変わってきたことはある。

私はいきなり「いじめられていた亀を8銭だして助けた」というのを読んだわけだが、日記をひもとくと、何回か引用したように、熊楠は何度も持ち込まれた亀を買っている。1908年のは「貰った」とあるが、1912年のは全部金を出している。

亀の他にも、海産物や植物など、町の人々から持ち込まれたものを、日常的に買っているのだ。

19世紀型の博物学者の日常って、そのようなものだったのだろう。ダーウィン先生も、かくや。

だから採集行の帰りに子供が亀を持っているのを見たならば、別に子供がそれをいじめていなくても買っていただろう。もし最初のエピソードが真実のものであったとしても、8銭出したのは、救助のためではなく、ただ、亀が欲しかったからという理由の方が大きいだろう。

熊楠は日記を読む限りでは、仏教的博愛主義者ではまったくなく、怒りにまかせて蟹を踏みつぶしたり、「泥棒猫」を絞殺したりしている。

日記の端々からは、「南紀田辺の海岸に佇立する優しい目をした今浦島」イメージをこなごなに打ち砕くめちゃくちゃな日常が立ち現れてくる。明治40年代といえば、もう40歳を超えているのだが、熊楠先生、まったくのバカである。
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