1 漂流物語へ
  [初出] 2005.02.12  [最終更新]  [平均面白度] 4.38  [投票数] 13  [コメント数] 0
昨夜、「海嶺」のことを書いた後で、そうだ、漂流についてもうすこしまとめて書いてみようと思い立った。そこで新しい「スレッド」漂流をたてることにしたい。(なお、そこで「はじめて世界一周してしまうことになった日本人音吉」(直し済み)と書いたが、それは記憶違いであった。音吉たちより30年ほど前に石巻の若宮丸乗り組みの4名がはしなくも世界一周している。しかもこの4名は無事故郷までの生還を果たしている。出発地に戻り得たという点でも、こちらこそが「初の世界一周」である)

江戸時代、国内での物資の輸送が大きく増えた。それまでは今の言葉で言う地産地消ではないが、物資が大量に遠隔輸送されることはなかった。そうした大量輸送をささえたのは俗に「千石船」とよばれる弁才船である。

海運が盛んになると、当然のことながら海難事故も増える。嵐などに遭遇し、航行不能となり海流のままに流されてしまうこともある。国内に漂着する場合(も多かった)は不幸中の幸いであるが、中には遠くカムチャッカやアメリカ沿岸までも流される船もあったし、鳥島などの無人島に漂着した例もある。

遭難者の多くは、海上で、あるいはどこかの無人島で命を落としたのであろうが、中には筆舌に尽くしがたい困難を乗り越えて生き延び、帰国を果たした男たちもある。しかも、その例は実に多数記録に残っている。

日本の「漂流記」というのは、主としてそれら生還者の記録である。

漂流記が多くのこされていることに関して、鎖国政策のために構造船の建造が禁止されたことによる「海難に弱い船」が原因であるとの見方もあるが、そのうち述べるように、そう単純な問題ではなさそうだ。むしろ、同時代の西洋の船にくらべても、海難に弱いとは一概に言いがたい構造であったようにも思う。だって1年5ヶ月にわたって海上を漂流した例もあるのだ。それはすなわち、その長期間海上を漂っていて、壊れもしなければ、沈みもしていないということを証明している。

「政治」の冷たさを言うなら、船の構造よりも、生き残り、戻ってきた男たちへの同情のなさを言うべきだろう。

江戸期に書かれた多くの漂流記を読むと、書き手(多くは武士である)の漂流という経験への視線の冷たさを感じざるをえない。書き手にとって興味があるのは、海上で苦闘し、生き延びたことではなく、漂着先で彼らが見た異国の風物であり、習慣でしかない。

多くの漂流記は、漂流そのものはあっさりと流し、異国に漂着してからのことに筆をついやす。たとえばロシア語の単語集のようなものが延々と続く。

漂流中に水や食料の確保に知恵をつくし、超人的な精神力で生き延びた男に、ロシアでは女陰はどういうかと聞く勇気は、たとえばぼくにはない。

であるから、江戸期に書かれた漂流記を読む際には、読み手が想像力で補っていく必要がある。そうじゃないと帰還した男たちの苦闘はよくわからないのだ。

人は海の中では実に無力だ。現代にあっても、救命ボートに乗り、食料や水があってさえ、3日ほどで死んでしまう例が多いのだ。絶望が人を死においやる。

すでに品切れになってしまった(ざんねん)ようだが、佐野三治「たった一人の生還―「たか号」漂流二十七日間の闘い」(新潮文庫)という本がある。

91年12月29日、グアム島へのヨットレースに参加していた「たか号」は太平洋上で転覆する。艇長はその時死亡してしまうが、残りの乗組員6名は救命ラフトに乗り移る。食料も水も潤沢にあったわけではないが、それでもまったくなかったわけではない。

27日後、漂流していたラフトはイギリス船籍の貨物船に発見され、この本の著者である佐野氏は救助された。しかし、このひと月たらずの漂流の中で、他の5名はことごとく亡くなってしまったのである。その5名はいずれも屈強の現役ヨットマンである。ヨットレースに参加するくらいだから、体力気力も人一倍自身もあったろうし、海への知識や経験も豊富だった。しかも最後の9日間は佐野氏はラフト上でのたったひとりの生存者であった。

もし、江戸期の漂流記、あるいは、それを元に書かれた漂流物語を順次読んでいこうとするなら、まずはこの本から読み始められることをおすすめする。

漂流とはどういうものかが少しはわかるし、そこから生還するということがどのようなことかということも見えてくる。そこには江戸期の漂流ものには見られない「人としての視点」がある。佐野氏の経験にもとづく視点を加味することで、他の漂流物語がまったく違う色彩で輝いてくる。
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