9 殿様の赤犬
  [初出] 01.06.06  [最終更新]  [平均面白度] 4  [投票数] 10  [コメント数] 0
ぼくのここ数年の最大の愛読書は「甲子夜話」(平凡社 東洋文庫)である。これは平戸藩の殿様であった松浦静山の随筆集(執筆当時は隠居)で、森羅万象、いろんなことが記された楽しい本だ。

なんど見返しても、飽きることがない。

犬、といえば、この中にこんな話がある。長くなるけど、引用したい。

時々浅草の上邸に往来するに、門前に赤毛の犬常にゐる。これ邸内にて生ずる者なり。予見るたびに旧時を思ふこと有り。先考*いまだ世子にて、今予が住む本庄*の荘に居ませしとき、御居間の床下に犬子を産す。毛皆純赤なり。先考これを愛せられしに、長ずるに及で甚勇敢、他犬に対して退逃するなし。予時に年僅に九歳か十歳なりしが、今尚能くこれを記臆す。

その犬躯小にして常に緩歩し、何事もなき如くなれども、闘に及んではいまだかつて敗走するなし。先考の他適せらるゝときは、必ず駕辺に従ふ。もしくは微行*し玉ひ、騎馬のときは馬前に歩す。ひさしくして外人それを知りて、松浦候の赤毛と呼ぶ者多し。坊間の数犬、これをみて皆黙踞して吠え追ふことなし。人不思議とす。

又この頃は今の大川橋はなくして、本庄に往く者、皆竹町、又御厩の渡りをわたる。よりて此頃の諸侯、輿乗槍馬を従へたる者、その人衆を率ひて渡船す。

予ときに幼、或日川辺に在て釣す。折ふし先考渡船せらるゝにあふ。赤犬もまた従ふ。先考駕脇の人に命じてこれを逐ひ去らしむ。赤犬すなわち水辺に伏して有けるが、その船発するを望で、即水に投じて游泳し、船傍に添てわたる。自他の人皆感賞せざるなし。

明和八年秋先考逝去せられて、天祥寺に葬り奉りし時も葬に従ふ。是のみならず、それより毎日公の墓側に伏て、去らざりしこと多時なりしが、その明年遂に本庄の荘に斃れり。


先考:亡父のこと。
本庄:本所のこと。
微行:おしのび。正式じゃないから駕籠を使わない。
甲子夜話巻四十九(東洋文庫版、3に所収)

いいでしょ、なかなか。

甲子夜話の中にあっては、この一編は文体的にも他のものとはずいぶん印象が違う。なんて言うかな、叙情的なんだよね。

飼い犬といっても繋がれているわけではなし、勝手に床下で生まれただけ。松浦静山の父は世子のまま死没するのだが、この若殿と赤犬の友情がイイね。書き手も妙にホーケン的主従関係みたいにしてしまっていないところもいい。

ただ、注意すべきは、この赤犬の名前が何であったか、を静山は記していない。きっと正式な名前がなかったんじゃないだろうか。きっと「アカ」と呼んでいたんじゃないだろうか。

人と犬の関係が、このようなものであったとき、あえて凝った名前を付ける必要はなかったのかもしれない。「犬の日本史」に犬の名前が出てこないのは、そのような事情もあるのかもしれない。
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