5 えんぴつの力
  [初出] 2005.05.02  [最終更新]  [平均面白度] 4.75  [投票数] 8  [コメント数] 0
長めの文章を書いたり、プログラミングをする前には、コピーの裏紙やチラシの裏などにラフスケッチを行う。フローチャートというほど大げさなものでもないし、アウトラインと呼べるほどしっかりしたものではない。大小いくつかのマルが適当に書き、そこにこちゃこちゃと文字を入れる。あとはマルを相互に矢印でつないだりしている程度。人が見たら、何について書かれているのかも判然としないだろう。まさに落書きレベル。

この落書きを書いていく過程で、いまから行う作業を考えている。もちろん落書きを始める前に、構想というか見通しはついているのだが、そうした純粋に脳の中だけで組み立てた流れはえてしてとんでもない欠陥が潜んでいる。

落書きをしていくと、そうした欠陥があぶり出されてくる。この時点でようやく「部分と全体のかかわりあい」が見えてくるからだろう。タカをくくってラフスケッチなしで本番に突入すると、あとで思わぬ泣きをみる。

ぼくだけのことかもしれないが、このラフスケッチというか落書きを行う際に使う筆記具は、かならず鉛筆でなければならない。シャーペンでもボールペンでもうまく頭が働かない。UNIのHBでないとだめだ。

だからまず最初に、紙を用意し(たいていはコピーのウラを使う)、鉛筆を鉛筆削りでとんがらせることから作業はスタートする。

なんで鉛筆でなければダメなのか。理由はよくわからない。単なる習慣の問題じゃないと思わないでもない。

思考は行きつ戻りつする。一方通行にどんどん前へ前進していく思考というのは、すでにどっかで整理がついているものでしかない。未整理段階で考えていく場合には、必ず、3歩すすんで2歩戻るのだ。

そういう「思考」のメカニズムと鉛筆という筆記具の相性がいいのかもしれない。ボールペンは、どうしても「清書」というイメージがある。消しゴムでごしごし消す訳にはいかない。鉛筆なら、いざとなったら容易に消せる。ぼくのラフスケッチでは、ほぼ消しゴムを使うことはない(まれにある)が、いつでも消せる、という安心感があるのだろう。

もうひとつは、筆記具としての信頼性。シャーペンは芯がなくなることもあるし、ボールペンはまるっきり書けなくなる事故もないではない。その点、鉛筆の信頼度は高い。最近の鉛筆は、途中で芯が折れることはまずないし、芯が見えているのにいきなり書けなくなるなんてことは絶対にありえない。

ものを考えているときに、そういうことまで気を配らなければならないのは困る。あるいみ、没頭しなければ始まらないのだ。もしかしたら、鉛筆の信頼性の高さが理由になっているのかもしれない。

別の仮説も自分のなかではある。少年時代に戻れる、ということも関係しているか、というもの。

短時間に集中して「考える」ということは、子供の頃には普通でも、大人になると、あまり行わなくなる。大人がものを「考える」という場合は、あれかこれかの選択肢のどれをとるかという決断を逡巡していることがほとんどで、学校のテストの用紙を前にして、結果のまったくわからない問題を解いていくというふうな「考え方」はあまりしないように思うのだ。文章やプログラムを書くのはある意味、学生時代のような頭の使い方をするわけだ。手持ちの材料を組み合わせて未知なる結論を導きだす。

そうだから、ラフスケッチは鉛筆でなければならないのかなあ、とも思う。

ぼくらのときは小中学校では鉛筆以外の使用は禁止されていたからね。
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