6 壱与はまだ、十三だから
  [初出] 2004.11.24  [最終更新]  [平均面白度] 3.48  [投票数] 21  [コメント数] 2
つまり、伊都国の人々は魏(帯方郡)からの使者に対し、ウソをついたんだろうというのがぼくの解釈だ。なぜウソをつく必要があったのか。それは彼我の歴史的な状況を見直してみると容易に推察できる。

卑弥呼が魏に朝貢したのは西暦239年である。なんでこの年に魏に使いを送ったか。それはきっとビビっていたからに相違ない。

この頃の大陸は大争乱時代である。三国志の時代だ。有名な赤壁の戦いは208年のことである。長く続いた後漢が弱体化し、大いに乱れた。その戦乱が魏・蜀・呉という三国分立でとりあえず収束し始めたのがこのころだ。

後漢が滅び、魏が成立するのが220年。劉備が蜀の皇帝に即位するのが翌221年、呉の成立が226年である。邪馬台国朝貢の前年(238年)には奇しくも五丈原の戦いがあり、諸葛孔明が死んでいる。

この政治構造の変化は日本列島にも大きな脅威と見えたに違いない。魏が攻めてくるかもしれないじゃないか。現に246年には魏は朝鮮半島の高句麗を攻め、周辺の30カ国ほどを支配下に組み込んでいる。

ビビったのですね。もちろん列島内で敵対するグループ(魏志倭人伝には狗奴國があげられている)に対しての「権威付け」あるいは「支援」が欲しかったという事情もあるだろう。が、より大きなところでは恐怖があったと考えるほうが自然だ。

大陸の中でごちゃごちゃ戦っている間は高みの見物を決め込んでいられたが、魏が成立し、中国北部でどんどんと勢力を確かなものにしていくのを見て、ビビったんではなかろうか。そこで使いを出し、服従の姿勢を示す。

それに対し、魏は非常に喜んだわけですね。というのも、向こうさんの地理感覚では倭は敵対する呉と同じグループに属するとみなしていたからだ。要するに南方系。魏志倭人伝の中でもわざわざ「計其道里、當在會稽東冶之東」、会稽東冶の東に位置すると書いている。会稽は「会稽の恥をすすぐ」という成句でも知られる中国南部の地名。春秋時代、越王勾践が呉王夫差と会稽山に戦い、そこで包囲されてやむなく屈辱的な講和を結ぶという辱めを受けた。これが「会稽の恥」である。そこから「臥薪嘗胆」(はこのときの勾践の行動に由来する)してリターンマッチで雪辱するって話だ。つまり呉越の地。

別のところでは「有するところタン耳・朱崖と同じ」と書いている。このふたつの地名は今の海南島にあるものらしい。

魏の人々にとって、倭は人種的に呉と同類であると思っていた(倭人伝のなかでもそういう記述になっている)。つまり敵性国家である。それがわざわざやってきたのだから、ことの他喜んだ。それが周辺諸国にくらべて異常に詳しい倭人伝の記述につながったのだろうし、わざわざ数度の使節(魏使)を派遣している由来だろう。もしかしたら伊都あたりに常駐していたのかもしれない。

倭国からすれば、魏のそのような対応はいっぽうでは嬉しいことだったろうが、いっぽうではますます恐怖が大きくなることでもあったろう。

そこで伊都国の首脳(というより邪馬台連合の総意として)は、魏使にたいして、「おれたちは大きいし、首都はむちゃくちゃ遠い」と主張したのではないか。だから攻めるのは難しいぞと牽制の願いをこめて。

その気持ちが邪馬台国の記述の中にも反映してくる。

卑弥呼は千人の侍女をはべらせ、宮殿に住み、楼館城柵で厳重に守られ、兵士が警護するとか、死んで後は径百歩の墓に殉葬者百余人とともに埋葬されるなんて記述はホントか嘘かわかりゃしない。たぶんウソなんではないか。

卑弥呼の即位について「倭國亂、相攻伐歴年、乃共立一女子爲王、名曰卑彌呼。事鬼道、能惑衆、年已長大、無夫壻」と書いている。戦乱状態が長く続いたので、ひとりの女を「王」としたわけだ。つまり、相争っている当事者どうしが、卑弥呼を代表者として選んだと読める。

ならば、ここでいう王とは、たとえば曹操とか劉備、あるいは孫権といったイメージからはほど遠いということだろう。鬼道に仕えとあるから、宗教的なリーダーであったと見るのがいいと思う。つまり、争乱の解決をシャーマンにゆだねたということではないか。ともに尊敬しうる宗教的なパワーを持つ卑弥呼の調停案に従うというルールを作ったのだ。

鬼道による紛争の調停者として卑弥呼を見ると、逆に戸数7万の「国」を彼女が政治的に統治していたというのは、理解しがたい。そうだとしたら宗教的な調停者になりえないのではないか。邪馬台は巨大な国ではなく、卑弥呼とその世話をするせいぜい数人のシャーマンのグループが居住しているちいさな庵あるいは神社のようなものではなかったか。そういう「地位」にいる卑弥呼だからこそ、その調停案(それは神からの言葉という形で発せられるのだろう)は、それぞれの政治的軍事的単位に受け入れられる。調停者自身が政治的軍事的勢力であれば、こういう形の調停は受け入れられない。

つまり、紛争解決にあたって、現在のローマ法王のようなポジションにいるわけですね。

魏志倭人伝の中の卑弥呼の地位はそのように読むのが最も自然だ、とぼくは考える。

そう読めば「卑弥呼の死」の記述もすんなり理解できる。
倭の女王卑弥呼、狗奴国の男王卑弥弓呼と素より和せず。倭の載斯烏越等を遣わして郡に詣り、相攻撃する状を説く。塞曹史張政等を遣わし、因って詔書・黄幢を齎し、難升米に拝仮せしめ、檄を為してこれを告喩す。
卑弥呼以て死す。大いに冢を作る。徑百余歩、徇葬する者、奴婢百余人。更に男王を立てしも、国中服せず。更に相誅殺し、当時千余人を殺す。また卑弥呼の宗女台与年十三なるを立てて王となし、国中遂に定まる。政等、檄を以て台与(あるいは壱与)を告喩す。台与、倭の大夫率善中郎将掖邪狗等二十人を遣わし、政等の還るを送らしむ。因って台に詣り、男女生口三十人を献上し、白珠五千孔・青大句珠二枚・異文雑錦二十匹を貢す。
漢文ってのはサッパリ記述するというのを旨としているため、なんともわかりにくい。このままだと魏からの告諭によって卑弥呼が死んだというように読めてしまう。しかし、多くの説ではそういうふうには解かない。老齢で死んだとか、狗奴国との戦いの中で戦死したとかと解釈する(松本清張は狗奴国への敗戦によって霊力の衰えを暴露してしまった卑弥呼に対して「王殺し」が行われたと解く。これはこれで魅力的な説だ)。でも、ここは素直に、「檄を為してこれを告諭」されたために死んだと解釈した方がいいんじゃないかな(この場合の「これ」は難升米をさすことになる)。魏が「詔書・黄幢」とともに軍事顧問団(団長・張政)を送り込み、難升米を中心に軍事行動をおこさせた。宗教的な統一から、難升米中心の政権に変えようとした。その過程で卑弥呼は殺された。

ここでいう「男王を立てしも」というのは難升米のことじゃないかな。つまり宗教的国家連合から、魏の後援をえた難升米政権による連合支配に切り替えようとした。しかし、それでも抗争は収まらないので、軍事顧問団は方針を変更し、(つまり難升米を見捨てて)卑弥呼の宗女、すなわち宗教的な後継者であるシャーマンの台与を立てた(もしくは国家連合が立てた台与の正当性を追認する、でも同じ)。要するに宗教的国家連合の形に戻った。

これで各国が納得し、平和が回復してしまう。軍事顧問団は役目を終えたため、引き上げざるを得ない。引き上げてもらうお礼として(ないしはこの構造を魏が追認してくれたことへのお礼として)、たくさんの贈り物を国家連合は行うのである。

卑弥呼を「象徴的な王」としてかつぐ倭の国家連合は魏の対外膨張を危惧して朝貢をおこなった。その窓口になったのが伊都国であったのだろう。ここからは推測にすぎないが、それができたのは、漢字の読み書き能力を含むコミュニケーション能力をその国が持っていたからだろう。国家連合の中でほぼ伊都国だけが「嘉字」でもって記されていることからもそれは透けて見える。彼らだけが自分の国名を「漢字で」報告したのだ。

中国は「夷狄」の国々にひどい文字をあてる。匈奴(まがまがしいどれい)蒙古(ばかでふるい)etc。邪馬台国や卑弥呼、奴国も同じ発想だろう。

魏との関係ができてしまうと、当初の目的から逸脱し、その後ろ盾を頼みに国家連合の覇者になろうとするものがでてくる。それが魏との連絡役であった難升米ではないのか。魏もそれを奇禍として、難升米政権を一時はバックアップする。

しかしおそらく難升米の実力がなかったのだろう。いくら魏のバックアップがあっても、国家連合の他のメンバーは承服することはなかった。そのため、張政ら軍事顧問団も旧態に戻すことを認めざるをえなかったのではないか。

そのころには張政らは邪馬台国の真相などもかなりはっきり掴んでいたかもしれない(7万戸なんかありゃしねえ、とか)。しかし、それを報告しても自分にソンになるばかりである。はじめに聞かされていた「うんと遠い、うんとでかい」をそのまま報告しておくことが、自分の失態を上層部に知られないためのやりかただ。

そのように見てくると、台与は魏の傀儡政権成立をふせいだジャンヌダルク的女王だと強弁することもできる(そうしてそう見なすと、お話は面白くもなる)。

そこまではぼくは妄想しない。でも素直に読むと、卑弥呼あるいは邪馬台国は以上のように読めるんじゃないかな、と思う。つまり、邪馬台国という「国」の実態があったわけではなく、国家連合の宗教的な調停者、どんなに大きくみても宗教的、象徴的なリーダーとしてのシャーマンが卑弥呼の役どころであって、政治軍事的な女王ではない。台与(壱与)もまた同じ。よって、邪馬台国の実際の所在地をあれこれ詮索するのも、あまり意味のあることだとは思えない。もしかすると邪馬台はシャーマンのいる場所というような普通名詞である可能性だってあるじゃないか。少なくとも数十万の人口を養うに足る広大な土地を探しまわるようなことはしても詮無いと思うのである。

5世紀になって、いわゆる倭の五王が宋に使節を送り、おれたちはヤマトだというのだが、こうしたヤマトは邪馬台国の正当な後継者であるわけではない。おそらく彼らは中国の文献を見て、親魏倭王の称号を与えられ、正当性を認められた邪馬台国の存在を知っていて、その後継者であると自己主張したと考えられなくもない。だからこそ大倭(のちには大和)と書いてヤマトと読ませる。

魏志倭人伝では倭と邪馬台はまったくちがうカテゴリーに属す言葉なのに。

以上が、現在のところのぼくの「邪馬台国」解釈。よって、政治的実態のない邪馬台国が東遷して大和朝廷になることもないだろうと思うし、数百年の中には何人何十人も存在しただろうシャーマンの一人にすぎない卑弥呼を天照大神に比定することも、神功皇后との関係を考えることも不要なのではないか。

いわば19世紀のアメリカにエドガー・アラン・ポーという人物がおり、20世紀の日本に江戸川乱歩というのが現れる。この音の酷似は無視することはできない。ポーはほぼ100年のときを超えて江戸川乱歩として東京に復活した、というに等しい。

ざっくり、このように考えておるわけです。
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いただいたコメント

kuma さんによるコメント
鹿島昇氏の説も面白いですよ。

http://snsi-j.jp/boards/sirogane/158.html[2004.11.22  #135]

せき さんによるコメント
>エドガー・アラン・ポーという人物がおり、20世紀の日本に江戸川乱歩というのが現れる。この音の酷似は無視することはできない。



 と言うよりも、ポーに心酔していた平井太郎なる男が、ポーの名前にあやかって江戸川乱歩なるペンネームを用いたというのが通説ですな。

 バスター・キートンを基に増田キートンなる名が生まれたのと同じで。[2005.01.17  #145]

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