5 卑弥呼は九州にいた
  [初出] 2004.11.17  [最終更新]  [平均面白度] 1.7  [投票数] 10  [コメント数] 0
「卑弥呼はざっくり九州にいた」と考えた論拠を書いてみよう。

もちろん素人のたわごとであります。ご寛恕のほどを。

魏志倭人伝の冒頭では朝鮮半島から邪馬台国までの各国を方向と距離で記述していく。この記述を元に各「国」の位置を比定していくのが、多くの邪馬台国論の手順である。

邪馬台国にたどりつくまでの道程の記述は以下の通り。
 倭人在帯方東南大海之中、依山島為國邑。舊百餘國、漢時有朝見者。今使譯所通三十國。
 従郡至倭、循海岸水行、歴韓国、乍南乍東、至其北岸狗邪韓国、七千余里。始度一海千余里、至対馬国、其大官曰卑狗、副曰卑奴母離、所居絶島、方可四百余里。土地山険、多深林、道路如禽鹿径。有千余戸。無良田、食海物自活、乗船南北市糴。又南渡一海千余里、名曰瀚海、至一支国。官亦曰卑狗、副曰く卑奴母離。方可三百里。多竹木叢林。有三千許家。差有田地、耕田猶不足食、亦南北市糴。 又渡一海千余里、至末廬国。有四千余戸、濱山海居。草木茂盛、行不見前人。好捕魚鰒深浅、皆沈没取之。
 東南陸行五百里、到伊都國。官曰爾支、副曰泄謨觚・柄渠觚。有千餘戸。世有王、皆統属女王國。郡使往來常所駐。
 東南至奴國百里。官曰兜馬觚、副曰卑奴母離。有二萬餘戸。
 東行至不彌國百里。官曰多模、副曰卑奴母離。有千餘家。
 南至投馬国、水行二十曰。官曰彌彌、副曰彌彌那利。可五萬餘戸。
 南至邪馬臺國、女王之所都、水行十曰、陸行一月。官有伊支馬、次曰彌馬升、次曰彌馬獲支、次曰奴佳〓。可七萬餘戸。
ここから「其の北岸である狗邪韓国」からの国名と道程を抜き出してみると

始めて一海を渡る千余里、対馬国(千余戸)に至る。
また南へ一海を渡る千余里、一支国(三千戸ほど)。
また一海を渡る千余里、末廬国(四千余戸)に至る。
東南陸行五百里、伊都國(千餘戸)に至る。
東南、奴國(二萬餘戸)に至る。百里。
東行、不彌國(千餘家)に至る。百里。
南、投馬国(五萬餘戸)に至る。水行二十曰。
南、邪馬臺國(七萬餘戸)に至る、女王の都する所、水行十曰、陸行一月。

一見して気がつくことは、伊都国までの書き方と、それ以降とが違うということだ。それまでは「良田なく海物を食して自活す。船に乗り南北に市糴す」という具合に状況がスケッチされているが、以降にはそれがない。距離の書き方も違う。

そこで、この記述の元になったレポートの筆者は伊都国までしか実際には来ていないのではないかと考えられる。伊都国の記述の中には「郡使往來常に駐まる所」とあるのを持ってしても、それはどうやら言えそうだ。つまり伊都国までの道順は、記録者の実体験に基づき、それ以降は伊都国での現地人からの取材に拠るというわけだ。

これは多くの論者がそう主張している。ぼくもその通りだろうな、と思う。

つまり、対馬国、一支国、末廬国、伊都國以外は伝聞に基づく情報だということである。

では伊都国からの方位距離はどのように語られたか。何人かの論者は、この方位距離は伊都国を起点にしてそれぞれの方位距離を書いたものだろうと言う。素直に読めばそうだろうね。つまり伊都国やら奴国までは100里、伊都国から邪馬台国までは水行十曰、陸行一月、という感じ(前々回「ヤマたいと言ったのは伊都国の人であると書いたのはそういうこと)。

もちろんこれを数珠つなぎ式に解釈するやり方もある。というか、そのほうがオーソドックスかも。つまり伊都国→百里→奴国→百里→不彌國→水行二十曰→投馬国→水行十曰陸行一月→邪馬台国と考える。これはどうも不自然な感じがするが、ま、いい。どちらでもいいんだ。

伊都国までの各国および奴国の位置は、多くの論者で見解の一致を見ている(九州説畿内説とも)。対馬国=対馬、一支国=壱岐、末廬国=松浦(まつらと読む。唐津市周辺)、伊都國=糸島半島(広辞苑には「後世怡土(いと)郡となり、また志摩郡と合併して糸島郡となる」とある)、奴国=博多(其の昔博多を那の津と呼んでいたし、漢倭奴国王の金印が出土したのも博多湾の志賀島である)。

ここで注意したいのは、それらの地理的なサイズが小さいというところだ。対馬、壱岐に関しては律令時代でも「国」レベルの大きさだが、それ以外、末盧にしても伊都にしても奴にしても、せいぜいが郡、つまり数か村の大きさである。しかもたとえば現在の唐津市周辺の風景とはかなり違っていたということが「草木茂盛、行不見前人」という記述からもうかがい知れる。地理的に郡レベルのサイズだとしても、その中の小さな場所だけが開発され、人が住んでいたのだろう。今の県境などとはちがい、無住の荒野の中にぽつんぽつんと居住区域=国が点在しているイメージ。

そう考えると、邪馬台国連合を形成する三十余カ国もまた、このようなサイズであったと推察する方が自然じゃなかろうか。使節の見た数カ国だけが連合の中で異常に小さく、他の国はもっとでかいと考えるのは、実に不自然だ。

だとすると、投馬国、水行十日、戸数5万、邪馬台国、水行十日陸行一月、戸数7万という数字はどうも納得がいかない。人口が多すぎるし、地理的にはなれすぎている。戸数7万っていえば、1戸に5人が暮らしていたとしても人口35万人である。数か村の連合くらいのサイズでは到底形成し得ない人口だろう。

だったら多くの先学が主張するように、魏志倭人伝の記述の中に誤記あるいは筆写時の写し間違いがあるのだろうか。

ぼくは別にそんな姑息な勘ぐりをしなくてもいいんじゃないか、と思う。だって、それらは先に見たように「伝聞」である。伝聞なら、現地の人が言った通りに書いたと理解したほうがずっとすっきりする。伊都国の人々が、邪馬台国はここから南へ船で十日、歩いてひと月、と主張したのだ。これを「船10日+徒歩1月」と理解するのか、「船10日or徒歩1月」と解釈するのか、それはひとまずどっちでもいい。もっと素直な解釈は「むちゃくちゃ遠い」ということである。

人口にしても同じで、5万とか7万の家があったというよりも、伊都の人々が「むちゃくちゃ多い」と報告したというふうに理解すべきではないか。

そもそも伊都くらいの国が30ちょっと連合しても、その全体の大きさが西日本を覆うとは考えられない。つまり伊都サイズの国を唐津から国道2号線にそって1列に30並べても、とうてい近畿地方には到達しない。

もちろん、グループを形成するのに、数珠つなぎに横1列というのはありえそうにない。

ゆえに、グループを代表する卑弥呼は近畿にいたと考えるのはどうかな、と思う訳だ。たぶん九州でしょう、と。その方がずっと自然じゃないかな。(この項、続く)
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